アラサーの集い 八幡ぐぅ

08、mob、むん太郎、三人のアラサーが綴る徒然草

戦国武将から学ぶ人生の突破口!

こんにちは!おっさんゲーマーむん太郎です!

 

いきなりですが、先日のE3 2018にてサプライズ発表されたタイトルがありましたね。

その名も……

 

「仁王2」

 

いや〜、本当に驚きました(゚o゚;

一作目が発売されてからまだ一年なのに、早くも続編を作っているとは…

 

私、実は戦国時代や武将も大好きでして(特別詳しいというわけではないのですが…)、それもあり、仁王1はどハマりしていました(´∇`)

 

その中でも私が特別に大好きな武将が登場しています。

それがこちらの人物

 

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引用元:Wikipedia

 

……え?

誰かって?

 

ゲーム好きな方ならこちらの写真の方がしっくりくるかも!

 

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この画像で「ああ!」と思った方もいらっしゃるかもしれません(笑)

この人物とは…

 

立花宗茂

(たちばな むねしげ)

 

という実在した戦国武将です。

 

この方がどういう人物か、本当にざっくりと説明します。

 

立花宗茂は、九州の豊後国(ぶんごのくに)、今で言う大分県あたりですね。に生まれました。

父は当時、武士の鏡とも言われた高橋紹運(たかはし じょううん)という武将。

なので宗茂さんは元服後(今で言う成人後)には高橋統虎(たかはし むねとら)と名乗っていました。

立花姓になったのはその後のことです。

 

宗茂さんの、その才覚たるやそりゃもうスーパーマンでして、戦も上手いし頭も切れる、忠義は厚く、部下からも民からも信頼が厚いという…

かの豊臣秀吉からは、その強さを讃えられ

「その剛勇、鎮西一」と称されました。(西日本で一番強いわ!という意味)

戦国武将好きな方からは完璧超人などと言われてたり(笑)

 

彼の人柄がよくわかる、こんなエピソードがあります。

 

ある日、宗茂さんは鎧の肩当て(肩を守る板状の防具)が付いていない部下を見つけました。

それを不憫に思った宗茂さんはこう言いました。

 

「おいお前、肩当てがないと危ないぞ!金がなくて買えないと言うなら、俺の鎧の肩当てをやるから、それを使え!」

 

大名の鎧の一部ですから、それはそれは高価で価値のあるものです。

部下はありがたく肩当てを頂戴しましたが…

実はこの兵士、別に肩当てを持ってなかったわけではないのです。

単に、肩当てがあると動きにくく、戦の邪魔になるから外していただけでした(笑)

しかし、殿のせっかくの厚意を断るわけにもいかず、不本意ながら肩当てを貰い受けたわけです。

 

このことが別の兵士により、宗茂さんの耳に入ってしまいました。

ところが宗茂さんは怒るどころか、優しい表情で

 

「それならばそれでいいさ。あいつがもし本当に金に困ったとき、あの肩当てを売ればいい。俺の鎧だ、当面の金には困らんだろう」

 

なんと…なんと部下思いの上司…!

圧倒的部下思い……!!

 

肩当てを貰った兵士はその話を聞いて涙し、肩当てを家宝としたそうです。

ちなみにその肩当て、現存しているそうです。

 

 

寝るときも部下たちと同じ寝床で寝ていたこともあるそうです。

部下たちは「殿!そんなところで寝ちゃダメでしょう!ここは床が硬いんですから、どうかご自分の布団で寝て下さい!」と言いましたが、当の本人は「いや、ここでいいわ。おやすみ」と、そのまま寝たそうです。

器が広いというか、無頓着というか…そんな人柄だったようです(笑)

 

 

話を戻しますが、宗茂さんこと高橋統虎は元服後、これも立派な武将であらせられる立花道雪の娘、立花誾千代さんと結婚し、立花家に婿養子として迎えられました。

婿養子の理由は、立花家に男児が産まれなかったので、家名存続のために、道雪さんが友人の高橋紹運さんに頼みに頼んで婿養子にさせてもらったようです。

もっと簡単に説明すると…

 

道雪「ヤヴァイ……うちどんなに頑張っても男が産まれない…。紹運、頼む!!お前の息子をうちにくれ!!」

紹運「え、いやです」

道雪「そんなこと言わずに頼むよ!なあ!俺とお前の仲じゃないか!」

紹運「え、いやです無理です。うちの息子、長男坊なんで^^;」

道雪「いいだろうがオイ!おめえんとこまだ男いるだろ!うちはマジで女しか産まれねえんだよ頼むよなぁ!!」

紹運「はぁ…仕方ありませんね…(´ε`;)」

 

 

という感じで立花さんは高橋さんから息子を譲り受けました(笑)

厳密にはまだその頃、立花道雪は戸次鑑連と名乗っており、立花宗茂という名前も、かなり後年になってからの話ですが、ややこしい話になるのでここは立花姓で統一します。

 

そうして無事に(?)立花家の跡取りになった宗茂さんですが、奥さんの誾千代姫とは仲が悪かったそうで、当時では珍しく本人達の意思で別居していたそうです (゚o゚;

やはりこの世に完璧超人などいないものですね(笑)

 

その後、なんやかんやあってお父さんもお義父さんも亡くなり、豊臣秀吉に助けられ(利用され?笑)配下となり、その秀吉もこの世を去り…

 

時は関ヶ原の戦いに!(随分飛ばしたなぁ笑)

 

立花宗茂も当然、この戦に参戦しました。

西軍、つまり豊臣側です。ご存知の通り、負け側です。

実は宗茂さん、関ヶ原の戦いで豊臣側、つまり西軍が負けるのは予想していました。

しかし、亡き豊臣秀吉への恩義に報いるため、負け戦と知りつつ西軍へ加担しました。

 

なんという立派な忠義…(´;ω;`)

そりゃ周りからも好かれますわ…。

敵からも好かれたそうですからね、宗茂さん…。

 

そして、関ヶ原の戦いですが、厳密に言うと、彼はその頃、関ヶ原にはおらず、大津城という城を攻めていました。

関ヶ原の戦いは、日本を二分する大戦だったので、戦いは何も関ヶ原だけで起こっていたわけではないんですね。

全国各地で東軍と西軍が戦っていました。

 

で、その大津城での戦いですが、やはり戦上手の宗茂さん、すぐに陥落させてしまいます。

彼は大津城攻めの際、「早込」という戦法を採りました。これは彼の養父、道雪さん譲りの戦法で、ざっくり言うと、火薬を詰めた竹筒をベルト状にして兵士の肩に掛けさせ、鉄砲を撃つ際のリロード時間を短縮させる、というもの。

 

その姿はまるでラ〇ボーです(笑)たぶん…

 

この「早込」により、鉄砲兵は通常の3倍の速さで攻撃することができたそう。

 

そう、まるで赤い彗星のシ〇ア です。

いやまあ兵士たちが早いんですけども(´ε`;)

 

しかし、奮戦虚しく、当の関ヶ原では僅か半日で西軍が敗北。

そして徳川の天下となるのですが…。

 

命からがら居城、筑後国(現在の福岡県あたり)の柳川城まで逃げ帰った立花宗茂ですが、西軍に加担した罪を徳川に問われ、立花家は改易(かいえき)されてしまいます。

改易とは、城も領地も全て没収され、浪人とされてしまうという、武将にとっては最悪の罰です。

 

要するにホーム〇スの状態です。

 

あれほどの才覚を持ち、豊臣に忠義を尽くした宗茂さんでも罰は免れなかったのですね。

 

 

しかし!

その浪人生活に、なんと部下たちが共についてきてくれたのです!

 

そんなことあります!?

例えるなら、倒産して最悪の状態になった社長に、部下たちが自ら進んでついてきてくれるんですよ!?

当時だって再就職はできたんです!

なのにわざわざ苦難の道を共にしてくれる部下たち…。

 

宗茂さんはそれほどまでに愛されていたんですね…(´;ω;`)

 

部下たちとの生活で、こんなエピソードも…

あるとき、貧乏で米が残りわずかとなり、仕方なく部下たちは水を多く入れて雑炊を作ったそうです。

その雑炊を宗茂さんに差し出したところ、宗茂さんはこんなことを言いました。

 

「なんだこれは!びちゃびちゃじゃないか!水を多く入れすぎだ!アホ!バカ!」

 

…なんと宗茂さん、雑炊というものを知らなかったのです (´ε`;)

こんな天然ぶり(?)をちょこちょこ出してくるわけです。部下たちから見れば、放っておけないようなところもあったのかもしれません(笑)

 

 

そしてその極貧の浪人生活の中でも宗茂さんは鍛錬を怠りませんでした。

いつか復帰するため!また返り咲くため!武士は鍛錬を欠かしてはならぬ!

そうして宗茂さんは浪人の身にも関わらず、様々な資格を取りました。

弓、馬術、剣術、槍術、柔術…。

元々、タイ捨流という剣の流派の免許皆伝でしたが、彼はそこから更に自分を磨きました。

 

そして遂に!

彼は徳川家康の目に留まり、徳川家に家臣として迎え入れられたのです!

二代将軍、秀忠の御伽衆(側近)として、陸奥国(現在の福島県あたり)に禄を与えられることになりました。

改易された浪人から遂に城持ち大名です!やったぜ!!

 

そしてそしてついに開戦、大坂の陣

豊臣秀頼淀殿を中心とした軍と、徳川軍との最終決着です。

宗茂さんは秀忠麾下で参謀となり、今までの戦で得た経験、知識をフル活用し、敵のあらゆる動向を察知、これを撃退。戦果を挙げます。

戦いの結果はご存知の通り、徳川軍の勝利。

ここで豊臣は完全に途絶えます。

 

この戦のご褒美に、宗茂さんは幕府から筑後柳川城の城主に任命。

筑後柳川城といえば…。

 

そう!元々の宗茂さんの城です!

なんと!

彼は遂に自分の城に復帰することを許されたのです!!!

 

関ヶ原の戦いで改易された大名の中で、旧領復帰できたのは立花宗茂のみ!

彼の今までの努力が報われた瞬間でした!

 

 

その後、宗茂さんは三代将軍の家光の相伴衆(しょうばんしゅう)に任命されました。

時は既に泰平の世。今まで学んだ剣術や弓術はあまり重要視されなくなりました。

宗茂さんの仕事は将軍の側に仕えて、ご機嫌伺いや面白話、世間話をしたり、短歌や俳句、果ては宴会芸など、今まで真面目に武士として生きていた宗茂さんにとって、全くの別世界の生き方です。

 

ここで宗茂さんは軽いノイローゼになったようで、知人だったか家族だったかに、珍しく愚痴を綴った手紙を送ったとか…。

 

宗茂「もうなんか疲れたよ…。毎日毎日、将軍様のご機嫌取り、宴会芸、下らない出世争い、俺が考える武士とはこんなもんじゃない…。なんか……虚しくなるわ…」

 

みたいな手紙です。

せっかく故郷の城に復帰できたのに、江戸での仕事が忙しくてなかなか国許には帰れなかったそうです…(´;ω;`)

 

しかし1638年、島原の乱が発生。

ここに来て宗茂さんは遂に戦へ!

この時、宗茂、御歳72歳!

今までの鬱憤を晴らすかのように、まさに獅子奮迅の活躍を見せる宗茂さん!剛勇鎮西一!

友軍からは「武神再来」と言わせしめ、彼の人生最後の戦を終えました。

 

この4年後、立花宗茂江戸藩邸で死去。享年76歳。

波乱に満ちた生涯を閉じました。

 

 

 

 

 

すこーーし長くなってしまいましたが、立花宗茂という武将のお話でした。

かなり大雑把で、デフォルメしたところもありますが、だいたい事実です(笑)

 

私自身、彼の生き方から学んだことは沢山あります。私が立花宗茂が好きな理由はそこです。

 

部下や周囲の人間に対し、正直に、真摯に接すること。

どんなにドン底に落ちても、今自分にできることを最大限に努力すること。

そして最後まで諦めないこと。

 

 

見習いたいものです。

理解はしていても、なかなかできることじゃありません (;▽;)

 

そして、いつの時代でも人間自体はそれほど変わりません。

ましてや同じ日本人で、たかだか400年前の話です。

戦国や江戸の世でも、日本人としての道徳観は大きくは変わっていないと思います。

 

戦国武将には色々な人がいます。

今回、お話した立花宗茂以外にも、人生のお手本となる人達が沢山います。

激動の時代で生き抜いた、あるいはお亡くなりになった人達ですから、本当にお手本になります。

中には反面教師にできるような武将もいます。

 

自分以外の人の過去から学ぶ。それは人間にしかできません。

歴史を学ぶとはそういうことなのではないでしょうか?

 

 

…とか偉そうに言ってみました(笑)

私自身はそんなに歴史に詳しいわけではありません(笑)

 

でも!好きな武将を一人や二人知っていると、生きる上での目標を具体的にしやすいと思います。

 

今回はゲームの話ではなく、歴史の話になってしまいましたが、一応「仁王」繋がりということで…(笑)

 

 

ちなみに…

 

 

立花宗茂の実父、高橋紹運ですが、彼の子孫はかの有名な麻生太郎さんです。

まぁ今回の話とは関係ないんですが(笑)

 

 

それでは今日はこの辺で!